22、私の両親に会おうとしない元夫

主人は長男の翔太が産まれた際、私が**の**市に里帰りしていたときに一度、
  私の離婚体験記実家に来てから それからは、盆であろうが正月であろうが、
一度も私の両親とは会おうとしませんでした。

平成**年*月私の母が心筋梗塞で倒れ、**市の***病院に入院しました。
運ばれた時には、命の保証はなく生還したのが奇跡だったと後で主治医のかたに聞きました。
その時、約10年振りに入院先の病院に子どもたちを連れ主人も行くことになり本当に久しぶりの再会になったのです。
母は主人のことを私と付き合っている頃から、可愛がり
「としちゃんとしちゃん」
といい、元夫に女性がいるということを話した時も信じてくれない程、元夫を信頼していました。
主治医の先生は絶対安静、家に帰っても何もしてはいけないと言われました。

実は、私は**市に移ったならば事業が失敗し自己破産して、生活保護を受けている母親には年に2,3回はこの家に来てもらい暖かいところで暖かい料理をつくってやりたいと、また当然主人もそれをさせてくれると思っていました。

ところが、引越ししてすぐに元夫の親族は全員呼び手料理をふるまいとしたのに、私の両親や兄弟のことは全く忘れているかのように何も言いません。
**市に来て私の家族が韓国人であることが世間に知れれば、まだ当時、市会議員をしていた義父の足をひっぱると言われました。
まだまだ**市は偏見が多いからと。
納得がいかない私は、休日だと元夫の両親がくるかもしれないので平日に両親を呼びました。
実情を知らない両親は主人が仕事が忙しいからわざわざ遠いところ新しい家を見に来ているのに、顔も出さないのだろうと思っていましたが、仕事でこの近所を常に回っている元夫が、**県**市という遠方から始めて来ている私の両親に挨拶する数分の時間もないことなど考えられないことでした。

23、元夫の会社での評判

離婚体験記 引越ししてから主人の部下でもあり娘の友人のお母さんでもある方に主人が昔、**支店にいた頃に不倫をしていたことは皆、知っていると聞きました。
そして会社でも部下が仕事がわからないことを知りながら、指示したり、気に入らないとデスクの引き出しを思い切り閉めたりとパワーハラスメントをしている様子でした。
そして一度**のネット上に名指しで鬼の上司と中傷されたことがあったらしいのです。
私だから虐めていたんじゃないんだ。
私だけが悪い、虐められてしかるべき人間ではなかったのです。
元夫の実像がどんどん明るみになって行きました。

24、元夫の父親の勝手な行動

離婚体験記引越ししてすぐに、ある日、義父母がやってきて、私が家の中にいるにもかかわらず当然のように、「**市会議員桂 宗緒後援事務所」という大きな看板を玄関につけてしまいました。
学校から帰ってきた子どもたちはここは自分たちの家だと思っているので「どうして勝手にこんなことするの。
はずかしい、いやだ」と怒りましたが、私は「この家は、おじいちゃんのおうちだし、このくらいのこといいじゃない」とたしなめました。

25、元夫の勝手な行動

離婚体験記引越しして、2ヶ月ほどしてから 前のマンションの掃除をしなくては、と気にかかり同じマンションで仲良くしていただいていた方が、親切にもお掃除を私も手伝いましょうと言ってくださり、二人で掃除道具をさげ、マンションのドアを開けました。
ショックでしばし言葉が出ませんでした。
すっかりリフォームされているのです。
全く知りませんでした。
なぜなら、「お前はマンションのことも放ったらかしにして!」と文句を言われていたからです。
あのマンションは結婚して育児の全ての思い出がつまり一番辛かったときを過ごし、私もずっと働いてローンの返済には貢献していたはず。
それが私の知るところ無く、関係ないといわんばかりに思い出の部屋がすっかり別の部屋に変わってしまっているのです。
リフォームしたことを知らなかったと友人に言うと「大変なご主人と一緒になったね」と言われました。
その日、主人になぜリフォームのことを話してくれなかったのかというと、「お前、あのマンションのこと思い出したくないいうてたやないか」と言うのです。。
「それは思い出のことでしょう。」私も元夫が生活費を充分にくれなかったため、後ろ髪惹かれる思いで、やりたくない仕事 (携帯電話の販売など)土日元夫が家にいてくれる時にできる仕事を選んだり、 泣く子を公的な施設にはまだ月例が満たないので預けられず、わけの分からない託児所に頼んで平日働いたことなどもあり、あなた一人であのマンションのローンを返せたわけではないのよ!子どもたちや私だって頑張ったんだから!と、ただただ涙があふれるばかりでした。
どこまで私をしいたげれば気がすむのか、子どもたちがいるから生きているそんな心境でした。

26、義妹の私へのやきもち

平成**年かと思いますが、義母が畑仕事中に腰の骨を折るということがありました。
同居している義理兄のお嫁さんはいても、ちゃんと面倒をみてあげているのか心配ですぐに様子を見に行きました、動けない様子ですので食事は?風呂は?と気になり
私: 「体をタオルでふきましょうか?」
私:「食事、多恵子さんが一人では大変でしょうから持ってくるなり作るなりしましょうか」というと
義母:「いやこんでいい、多恵子の機嫌が悪くなるから」というのです。
結婚してから私と義母が話をよくしていると、やきもちをやくようでした。
それでも気になり2,3日に一度、たずねると体に悪いからと
パンも食べないような義父と義母がゴミ箱に二人分のカップラーメンを食べ捨ててあるのでした。
兄嫁には異常なほどに気を使うのは結婚当初、一度多恵子さんと義母の折り合いが悪く多恵子さんが出て行ったことがあるので長男の嫁に何かあるというのは、世間的にしめしがつかないのです。

27、私の母が倒れる。(無関心な元夫)

離婚体験記平成**年に私の母が倒れ、平成**年*月私は、なにやら母があまり長くないのではないのではないかと常に不安でした。
両親が住んでいるところは粗末な環境でトイレも外にあるような状況。
すっかり弱っているそんな母親は、もうそんなに長くないかもしれない、数日ここに泊まりに来て貰ってはだめか主人に聞くと無言。
「それがだめならば、後悔しないように私たち夫婦が過去を忘れてやり直していると安心させてやりたいから、子供たちを連れて一緒に母の所に会いに行ってほしい」と懇願しました。元夫は至近距離の私を無語で見た後、目をそらし返事はありませんでした。
母が心筋梗塞で倒れた時に、生活保護を受けてくらしているスーパーハウスを見てどれ程のひどい状況であるか知っているのにです。
この時、私は元夫と話をすることを拒否、いえ話ができなくなってしまいました。
以前、元夫から「お前のだんなは死んだと思え」と言われました。
本当にそのようになり、私は仕事、家事、子どもたちのこと全てを明るく前向きにやるよう努力しました。
本もいっぱい読みました。
それでも元夫の弁当は作り続けていました。
しかし、なかなか言葉を発っせない私に主人はいやがらせのように作って玄関に置いてあるお弁当を2回、持っていきませんでした。
フルタイムで毎朝5時に起きて娘の分と合わせてお弁当を作っていることが、どれ程きついことか、また大きなランチジャーに入れたお弁当内の食べ物を粗末にすることに一度は許せましたが2度目は許せず、元夫のお弁当は作らないことにしました。
元夫は私の作った食事をまったく食べなくなりました。
もちろん、用意は毎晩していましたが。
元夫は休日も義父の手伝い、つきあいなど等で、**市に来てからは母子家庭同然の状態でした。

28、元夫の父親の姉の突然死

平成**年、月が思い出せませんが元夫の父親の姉に当たる方が急死しました。
元夫は私に通夜も葬式も行かなくても良いといいましたが、そういったことに不慣れな私は元夫の言うとおりにするつもりでした。
主人は通夜には参列していましたが、突然電話があり、今から 家に迎えに行くから喪服を着て用意するようにと言われました。
喪服を持ち合わせていない私は元夫に、喪服をどうするのか?
から些細な喧嘩になったのです。
そこでまた、大変ショックなことを言われたので(思い出せないのですが)「そんなことを言われて、とてもあなとと行く気持ちになれない」と言ったのです。
そうしたら元夫は「行かへんかったら子どもらに、ようならんぞ!」とおどしたのです。
意味が最初わかりませんでした。
桂家の世間体に泥をつけたらどうなるかわかっているのかという意味なんだと後で理解できました。

29、私の投票の自由の制限

離婚体験記平成**年**市で市長選挙がありました。
現市長の松沢氏と旧市長の方との一騎打ちでしたが、私は松沢氏の改革に期待したく、松沢氏に投票するつもりでした。
しかし、義父は自民党で旧市長派でした。
投票日、本当に久しぶりに家族で、たかが投票場ではありますが一緒に行動していることが何ヶ月ぶりかで、それだけで嬉しかった私に主人は、投票場まで歩いて15分の距離の間に3回も4回も、そして会場に入ってからもその旧市長に入れるんやぞと脅すのです。
私は私の意思を殺していかなくてはいけないのかと苦く寂しくやるせない、人権無視を間のあたりにされたような屈辱感を感じたことを覚えています。
この人といたら私は無くなってしまう。

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